以前の記事で、「急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし」を嫁が投稿していたのですが、「旦那視点からも記事を書いてほしい!」という嫁からの要望があったため、僕からの視点での記事も書いてみました。
- 病気にかかる
- 入院
- 退院 ~ その後
までの流れを書こうと思います。
1.病気にかかる
僕と嫁は元々同じ会社の上司と部下という関係性でした。僕は大体9時から9時半頃の出社で、その後すぐくらいに嫁が出社してきます。
入院する3,4日前、出社してきた嫁が僕に、「風邪ひきました・・」と言ってきました。まあまあ風邪くらいは誰でも引くので、「あーそうか、今日ははよ帰りやー」と言って、その日は大学で非常勤講師の日だったため、昼過ぎから大学へ行きました。
授業を終え、18時頃に会社へ戻ると、嫁の顔がまっかっか!
びっくりして、「大丈夫かいな!仕事はええし、もう帰り!」と言いましたが、
「もう少し仕事が残っているので、終わったら帰ります・・」と言って、定時少し過ぎくらいで帰っていきました。
その次の日も体調は悪そうでしたが少し持ち直したようで、最終出社日だったその日の大掃除は誰よりも頑張り、昼過ぎには帰宅したようです。(僕はその前に帰宅した)
次の日は「スターウォーズ」を観る予定をしていたたのですが、流石に無理だろう、ということで電話し、「明日はやめておこう」と伝えると号泣。「なんとしてでも行きたい!」と言うので、少しでもやばい、と感じたらすぐ言うこと、と念を押し次の日は「スターウォーズ」を観ました。
そして次の日、入院することになります。
「死んでしまう」というメッセージが届き、これはやばいなと感じた僕は、すぐに家を飛び出し、ウィダーinゼリーとかオレンジジュースとか栄養剤とか、あと何故か持っていないと言っていた体温計を買い、嫁のいるマンションへ飛んでいきました。
マンションへ着くとやばい匂いが・・。臭いとかではなく、何というか病気の匂いというか、どんよりした空気というか・・。
すぐに体温を計らせて、日曜日でも診察をしてもらえる救急病院を探しました。
検索すると何個か候補が出てきたのですが、よー分からんかったので、上から順に電話をかけ、来てもらって大丈夫です、と返答していただいた「日本バプテスト病院」へタクシーで向かいました。
まあ間違いなくインフルだろう、いや、インフルであってくれ、と思いながら診察を待ちます。(インフルでなければもっとやばい病気かもしれないと思い)
でも診察を終えた嫁に「インフルやった?」と聞いたら、「いえ、違うみたいです。髄膜炎という病気かもしれないので、京都第二赤十字病院へ行ってくれと言われました」とのことで、髄膜炎ってどんな病気や・・、と思いながらも再度タクシーで向かいました。
そこですぐに髄液の検査などが行われ、即入院が決定。嫁のご両親にすぐに電話をさせ、大部屋へ移りました。
その時に先生から聞いた話だと「大体長くても2週間ほどで退院できますよ」ということで、少し安心した記憶があります。ちなみに、入院手続きを行う中で、僕の存在を看護師さんに伝える必要があったらしく、「彼氏です」と答えたそうです。その時はまだお付き合いしていなかったのですが、入院と同時にお付き合いも始まりました。さらに、その日のうちにご両親ともお会いし、その日一日で色んなことを体験することに。嬉しいような悲しいような変な心持ちで帰宅。
2.入院
入院期間は大きく分けて、
- 急性散在性脳脊髄炎を治す期間(3ヶ月)
- 脊髄損傷による神経痛を抑える期間(1ヶ月半)
- リハビリ期間(6ヶ月)
で、
・急性散在性脳脊髄炎を治す期間
・脊髄損傷による神経痛を抑える期間
の間は毎日見舞いに行きました。
・リハビリ期間
の病院が家から遠かったため、週末だけ行ってました。
急性散在性脳脊髄炎を治す期間
入院してから意識を失くし、目を覚ましたと思ったら胸から下の感覚を失い、神経痛が始まるまでの期間です。
髄膜炎と診断された次の日から2日ほどは会話は出来ました。ただ、食べたものは全て戻すような状態で、頭痛は入院時から治まるどころか強くなる一方。「本当に髄膜炎か?脳炎になっていないか?」と毎日ネットで調べる日々。
そして3日目くらいで会話が成り立たなくなり、同じことを繰り返し呟き出します。その後、てんかんを起こし、意識消失。会話が成り立たなくなってから意識消失までは2時間ほど。すぐに個室へ移され、首や鼻にカテーテルが通され、ステロイドの大量投入。家族ではない私では付添にご家族の了承がいるとのことですぐにご両親に電話し、その後すぐにご両親も駆けつけて来られました。
その日は深夜まで付き添いましたが、次の日から目を覚ますまで、気が気でない日々が続きます。
目を覚ましたのは、年も明け、僕も仕事が始まってからで、仕事中に嫁のお母さんから「目を覚ましました!」という連絡がきて、心底ほっとしたのを覚えています。(最後に会話したのが全くコミュニケーションを取れない状態だったので、正直目を覚ました後もまともに会話出来ないんじゃないか・・という心配はありましたが)
それからも毎朝出社前に病院へ立ち寄ってから、その状況をお母さんに伝え、また逆に僕が会社に行っている間のことは、お母さんからご連絡をいただく、というやり取りを3ヶ月間続けたんだったかと思います。
目を覚ました後も、僕らには見えない物が見えていたり、意識混濁が酷く、朝病院に到着すると、「あんなぁ〜、今日はな〜、香港の看護師さんがな〜」と行ってもない香港で治療を受けていると思いこんでいたり。そういった症状も徐々に回復していくのですが、毎朝胸が締め付けられるような思いで出社していたのを覚えています。
急性散在性脳脊髄炎自体は「ステロイドパルス」や「免疫グロブリン」「血漿交換」を行うことで徐々に回復の方向へ。
ただし、とある日、主治医の先生が回診されて、いつもと同じように、足をトントンとされ、「古澤さん(嫁の旧姓)、どこを触っているか分かりますか?」と尋ねられました。いつもだと、「足です~」と弱々しいながらも答えていたのですが、その時は、「へぇ~?どこですかぁ~?」と答えます。
「おい、まじかよ・・」と心がざわっとしたのですが、何度、先生が確認しても、足を触られているのが分からない様子。
それでもその時は、「一時的なものだろう、病気が回復していくにしたがって、感覚も取り戻していくだろう」と思っていました。しかし、戻ってくることはなく、主治医の先生からは「脊髄損傷」であることを告げられます。
その日から1ヶ月か1ヶ月半ほどで急性散在性脳脊髄炎自体は完治するのですが、今度は後遺症である「脊髄損傷による神経痛」と闘う日々が始まります。
脊髄損傷による神経痛を抑える期間
「ステロイドパルス」や「血漿交換」でどんどん急性散在性脳脊髄炎の症状が良くなった嫁は、「意識混濁」や「手の震え」、「てんかん」、「視界上の黒い影」なども収まり、みるみる元気になっていきます。その一方で、徐々に神経痛が酷くなります。
本当に酷い時は、自分の鼻息ですら痛く、また服を着ていると擦れて痛いからと、上半身をさらけ出していました。看護師さんにも「胸見えてるで」と言われて、「見せているんです!」と答えてたそうです。
毎朝病院に行くと号泣し、「痛い痛い」と泣き続けていました。正直、入院してから一番辛かったのがこの時期だったような気がします。僕も「少しずつ良くなるはずやから」と言いながらも、一向に良くならない姿を見て、どう励ましてあげたら良いのか分からなかったです。ただそれでも毎日顔を見せ、何も言えなくても側にいてあげることだけが自分のできることだと思っていて、本人もそれが救いだったと言っていたので、同じ悩みを抱えておられる患者さんのご家族の方がおられたら、そうしてあげてください。
「京都第二赤十字病院」から「京都府立医科大学附属病院」へ移ったのも、この神経痛がひどすぎたため。
神経痛に詳しい?お医者さんがおられるそうで、急性散在性脳脊髄炎自体は良くなったので、今度は神経痛を抑える期間が始まります。
これが見事に功を奏し、2~3週間ほどでみるみる神経痛がマシに。
神経痛が収まらない限り、リハビリもスタート出来ない状態だったため、本当に良かった!
(嫁の場合、「リリカ」という薬が効いたそうですが、神経痛は人それぞれ何が効くかまったく分からないため、他の人では何とも言えないそうですが・・。)
その後、「京都府立医科大学附属病院」で少しリハビリを行いつつ、本格的なリハビリを開始するため、「京都大原記念病院」に移ることになります。
リハビリ期間
結果的にこの期間が一番長かったのですが、こんなに長く行ってたっけ?と思えるほど早く過ぎたように感じます。
おそらく、「急性散在性脳脊髄炎を治す期間」と「脊髄損傷による神経痛を抑える期間」は地獄の日々だったため相当長く感じました。車椅子生活を余儀なくされることを伝えれられるのもこの期間中だったため、リハビリ期間も本人はそれなりに大変だったと思うのですが、それでも週に2回の週末に会えるのは嬉しかったし、リハビリが終わるとそれからアイスを買って食べたり、ニンテンドー3DSで二人でマリオカートをしたり(嫁がゲームをすると大声で叫ぶので怒られた)、何度か一時退院をして映画(シン・ゴジラめちゃくちゃ良かった)を見に行ったり、なかなか楽しい日々でした。
何度も言いますが、本人はそれでも相当しんどかったと思います。
この話は僕では出来ないので、そのうち書くであろう嫁の記事を見て下さい。
3.退院
リハビリも終え、ようやく退院。それでもまだまだ足の感覚、運動機能を回復するためにリハビリは続けているのですが、とりあえず一通りの日常生活が出来るだけの能力は取り戻せました。
実は、入院をしている間にふわっと結婚することをお互い決めていたのですが、きちんとプロポーズはしていませんでした。
入院するタイミングでふわっとお付き合いが始まり、嫁に事あるごとに「付き合う時に私は何にも言われてへん!」と言われていたため、プロポーズだけはしっかりせんと、一生何か言われそうやな・・と思っていたので、退院する日にしようと決意していました。
ただ、退院する日は、病院で使っていた私物などが大量にあり、それを車に詰めたり、なんだかんだ手続きなどでバタバタしていたため、プロポーズなんかしている暇がなく、結局、嫁のお父さんが運転する車の中でプロポーズしました。想定通りとはいかなかったですが、まあちゃんとしたので、色々言われることはないでしょう・・。たぶん。
その後は嫁は実家に戻り、地元のリハビリ施設でリハビリ。
僕は結婚するために嫁が自由に生活できるようにバリアフリーの新居を建てました。
そして、退院から約1年2ヶ月ほどで新居も完成し、結婚することへ。
新居の具体的な記事は他の記事で書いていこうと思います。
以上、かなり長くなりましたが、僕視点での嫁の闘病日記でした。
両下肢麻痺の嫁と結婚すると色んな人に報告すると、「よく決断したね」といった声をかけられることが多いですが、(僕も自分が当事者でなければそう思っていたかも)いざ当事者になってみると全然決断とかでなく、病気になる前の嫁と何ひとつ変わらなかったので、大して健常者の人と結婚するのと変わらないんじゃないかと思っていますし、すごく幸せです。人と違う経験が出来ていると思えて結構毎日楽しいです。
これからも、僕達ならではの経験などを面白おかしく投稿していこうと思いますので、よろしくお願いします!