急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑧

急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑦の続きです。

気持ちと現実問題

前回の記事でも少し触れていまいたが、回復期のリハビリ病院における最優先課題は、在宅・社会復帰です。
当たり前だろう!と思われるかと思いますが、仮にお医者さんが「この患者は歩行の回復が見込めません」という診断を出すと、歩行練習には時間を費やすず、日常生活の原状回復を最優先にしよう!という方向性のリハビリになってしまうということです。

人によっては、リハビリを始める時点で「自分はもうこの体で生きていこう」と前向きになる場合もあるかもしれません。
私はとてもそうはなれませんでした。

おそらく私もジョイマン先生の中では歩けない認定を下した一人だったのでしょう。
けれど顔を合わせるたびに「歩けるようになりたいでっっす!!!!」とつよ〜いつよ〜い圧を掛けていたので、先生は私の意思を尊重してPTさんと相談した上でたまに装具を付けて平行棒に立って立位の練習をさせてくれました。

今思えば、腕力も体幹もクソもない状態でいきなり平行棒立ったって、姿勢は悪いわ腕力もたんわ貧血になるわで練習にもならんのですが、とにかく必死というか躍起になってそれに打ち込みました。

でもなだかんだで初めの方から最後の方まで躍起になって続けた立位歩行訓練は、根性と急激な低血圧の回避以外あまり実にはなりませんでした。
やっていた当時は全然進歩のないことは見えていないふりをし、「歩けないなんてそんなわけない」という思いが強すぎて、ずっと現状を心の中で否定し続けていました。

24歳で幼児がえり

リハビリ病院での転院当初は歩けないだけでなく、その他にもできないことはてんこ盛りでした。
当時なんとか一人でできていた生活動作といえば、食事・上着の着替え・ベッド上での導尿(道具を使った排尿方法)のみだったと思います。
それ以外は全て介助無しではできなくて体だけ赤ちゃん返りしたような気分でした。

入院期間も5ヶ月になると看護師さん達がおむつを変えてくれることや摘便などの行為に対して羞恥心はとっくに無くなっていましたが、ふと「あ、辛っ」ってなることはしばしばあって、24歳にして二度目の幼児化はただただ情けなくてたまらなかったです。
だからこそ、簡単なことからでいいからとにかく自分一人でできるようになりたいとその点については常に前向きでした。

紐パン事件

作業療法のリハビリをはじめた当初、やることといえばもっぱら着替えの練習でした。
着替えひとつにおいても身障者の作業動作は回りくどいです。
当然のことながら健常者と同じ動作ではできません。
何万回目の前の自分なら〜っていう言葉を頭にチラつかせつつも、少しづつ新しい動作を身につけていきました。

いっとき着替えの練習でパンツが上がりきらくてつまずいたことがありました。
原因は車椅子上でパンツが上がりきらなかったのか…正直詳しいところは忘れてしまったのですが、悩んでいたある日、担当のOTさんとPTさんが私に手作り紐パンをプレゼントしてくれました。

意味がわからないですよね。
私もわかりませんでした。

聞けば、どうやら紐パンなら工夫して履けるんじゃないかという提案っだったそうです。
いやでもだからって手作りしなくても…とは口が裂けても言えず。
と思ったのですが我慢できずに思わず口走ってしまいました。

すると二人は「お互いにヤバイねっていいながら作った」と笑っていました。

直感で、この二人とは仲良くなれる…!と思いました。

イラストでは表現しきれないかなりヤバめな紐パン。普通のパンツにハサミを入れて作ってくれた。エッジの効いた配色センス。全て手縫いの丁寧な仕事。

二人なりに必死に考えてくれたことが嬉しかったです。
これを機により仲良しになれたのは言うまでもありません。

結局優しさとエールだけは受け取って、その紐パンは履かなかったのですが、良い思い出として今でも実家のタンスに大事に保管しています。(多分)

パンツ上がらない問題は、数をこなすことで無事上達していきました。
リハビリの上達はとにかくトライアンドエラーですね。

今回はここまでです!
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更新がスローペースなブログですが、引き続きよろしくお願いいたします!

それではー!

[今更な作業療法と運動療法の違い]
https://www.nitiriha.com/different</a >

【この話の続きです】
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑨