急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑤の続きです。
回復していく喜び
「寝たきりから車椅子に乗れるまで回復したい」という大学病院に入院したときに立てた目標はけっこう早い段階で叶いました。
痛み止めのお薬が効き始めて1週間もなかったと思います。
完全に痛くないわけではなかったのですが、それでも普通に座れていることに自分でもびっくりしていました。
乗れたときは、やっと…!という思いでした。
ついこの間まで寝たきりでオールスター感謝祭観ながら泣いていたなんて嘘のようで、テンションがぶち上がりました。
私の様子があまりに嬉しそうだったのか、理学療法士さんから「写真撮りましょうか」と言って写真を撮ってくれました。
座れるようになったことで、誰の手も借りずご飯が食べられるようになり、(看護師さんに食べさせてもらっていた)途端に病人気分から脱せられたように感じました。
私自身が元気になることで、心配してくれている人たちも元気になる、自分だけが闘病してるんじゃないことに強く気付かされました。
日に日に座れる時間も伸び、(寝たきりだったので、座位になると血圧が急激に下がり目眩などがおこる)元気も取り戻してきたので、一日でも早くリハビリを再開することになりました。
2016年4月中旬〜下旬 リハビリ再開
まだ完全に起き上がれる状態ではなかったので、初めはベッド上でのストレッチを中心に行いました。
体を動かすようになると、今まで目をそらしていた自分の状況を半ば強制的に考えなければいけなくなりました。
本当に足全然動かないな、体幹効かないから背もたれ無いと安定して座ることも出来ないな。誰がどう見ても身体障害者だな。今動かないだけって思うようにしてるけど、もしこの先ずっとこのままだったらどうなるんかな―――。
そんなことを考えていると、胸の奥の方にずーんと深くて暗い穴ができるような、見えない重圧がのしかかってくるような、とにかく重苦しい気持ちになりました。それ以上深く考えたらドツボにはまってどうにかなってしまいそうで途端に怖くなり、目をそらすようにあえて現状を楽観視するようにしました。
どのみち今はできることをやる以外ないのは分かりきっていたので、とにかくそれに打ち込むことにしました。
けど内心では「そのうち杖をつくレベルには歩けるようになるだろう」とか、「だとしてもいつまでこの状態なんだろう」とかいろんなことを思っては不安になる毎日でした。
第一の難関、トランスファー
その頃とにかく練習していたのは、「ベッドと車椅子を行き来できるようになる」でした。
当然のごとく健常者の人であれば、よっこいしょと腰を上げれば簡単にベッドと椅子を座り変えることができるのですが、両下肢麻痺の身体障害者だとそうはいきません。
ましてやついこの間まで数ヶ月寝たきりだった病人であればなおのこと、普通に座るだけでもフラフラしてしまいます。
筋肉もとうの昔に落ちきってしまい、脱力した重い自分の体を支えるほどの力がありませんでした。
とは言っても自分のQOLの底上げには必須な移乗動作。なんとしてもモノにしなければいけませんでした。
初めはガッツリPTさんに補助をしてもらいトランスファーボードという便利なアイテムを使って何度も何度も繰り返し反復練習をしました。
リハビリはとにかく感覚を掴むのが大切で、この移乗動作練習も初めはとにかく頭を使って動くことを意識しました。
力任せにえいや!とやれば出来るわけではなく、足をあっちに向けて、ここを支点にして、体重はこういう移動で…と逐一確認しながら動かないといけません。今までの事を思うと、回りくどい動作につい煩わしさを感じてしょうがありませんでした。
今でこそチョチョイのチョイとボードも使わずぴょんぴょんの移乗出来ますが、当時は私も周りもハラハラでした。トランスファーボードが滑り台みたいになるので、失敗したら床に強打と想像してドキドキでした。
少し怖いくらいに責めないとリハビリは意味がないと言うPTさんの教えのお蔭で、移乗動作は徐々にコツを掴んでいきました。
こういうとき比較的運動ができるタイプでよかったなと思います。体育会系リハビリにも付いていけるしね。
そんなこんなで大学病院には1ヶ月ほど入院をしました。
痛みを克服させてくれたことに深く感謝しつつも、びっくりするほど美味しくない病院食と古くて暗い大部屋が嫌すぎてぶっちゃけ早く出たくてたまらなかったです。
5月初旬まで大学病院でお世話になり、その後回復期のリハビリを専門の病棟のあるリハビリテーション病院に転院をすることになるのでした。
今回はここまでです!
それでは〜。
【この話の続きです】
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑦