以前、急性散在性脳脊髄炎(ADEM)を発症し一時意識不明になったまで話を投稿しました。
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし
今回はその後目を覚ましてからの話になります。
2016年1月初め 意識が戻る
2015年12月28日に意識が無くなってから5日目に、私は意識を取り戻しました。
その場には母が居合わせてくれていました。
母曰く、目が覚めてすぐに「ちょっとオシッコ行ってくるわ…!」と起き上がろうとしたそうです。
その時の私の様子を家族に見せる為に母が動画に撮っておいてくれていました。
見ると、話すことはできるけれど、呂律がうまく回っておらず、内容もちぐはぐ。目を覚ましてはすぐに疲れて寝てしまうを繰り返しで常に寝ぼけているような私がいました。
イカの触手の先っぽみたいな手袋をしていたのは、鼻のカテーテルを勝手に抜いてしまったから
意識が戻ったときはまだ足の感覚はあったようで、(おしっこ〜と言ってるから尿意もあったのかも)医療用の圧縮靴下(メディキュットの最強版)を履かされていたのを知らなった私は、母に「この靴下穴あいてる〜」と照れ笑いをしてたらしいです。
けれどその数日後、朝の回診時に先生が触診をした際に「どこを触ってるか分かりますか?」と聞いたのですが、私は「どこですか〜?」と答えたらしく、その瞬間先生の顔があからさまに曇ったそうです。
1月中旬〜末
未だ脳の炎症が残っていたので、視界に黒いモヤが見えたりしていました。
たまに話そうとしても言葉が出ず、口だけがパクパク動くなど、発作の兆候も見えたそうです。
痙攣や発作があるたびに、薬の量を調節していきました。
その頃行っていた投薬治療のひとつに、免疫グロブリン大量療法というのがあるのですが、こちら、1本2万円というウルトラ高いお薬だそうです。
これを何十本か投与したそうなのですが…考えただけでゾッとします。
ふんギラのたむらあやこさんも60本打ったそうです。
もちろん私も高額医療制度というありがて〜制度をフル活用させていただきました。
詳しくは→ 【全国健康保険協会 高額な医療を支払ったとき】
1月末頃、髄液の検査をとMRIの検査をしたところ、発症当初髄液中のリンパ球数が異常な多さだったのに対し(400とメモしてあったけど単位がわからん)、1月末には少し多めまで減少し炎症が緩和している傾向にありました。
しかし、脊髄の傷が胸付近、腹部付近、下腹部付近に見られ、特に胸付近の傷が深く神経の損傷がどこまで回復するか分からないと伝えられました。傷の位置と深さはつまり、脊髄損傷の重症度を表します。
脊髄損傷になった、感覚と運動機能が良くなるか分からないと伝えられ、その時私はどう感じたのか、幸か不幸か今では全く思い出せません。
2月 血漿交換
脊髄損傷になったらいち早くリハビリを開始することが重要になってくるのですが、まだまだ炎症は残っていたので、とにかく今は治療に専念が第一でした。
悪さをしている抗体を体から取り除くために、「血漿交換」という治療を2月ごろから開始しました。
めちゃくちゃはしょって説明すると、血をきれいにして体に戻すという治療です。(だと思っている)
なんとこの血漿交換がまさに効果てきめん!
週1回の血漿交換を計7回行ったことで、かなり症状が良くなり、リンパ球数もグッと右肩下がりで落ちていきました。
おかげで痙攣などがなくなり、鬱陶しいかった首の点滴もすべて外してもらえました。
しかし、炎症が無くなるのとは裏腹に、体にある変化が出始めたのでした。
それが現れたのが2月8日。
妙な痛みがみぞおちから下にかけて出始めます。
それは日々強くなっていき、寝たきりの体を揺らすだけでもズキズキと痛みました。
この痛みの正体は神経痛。ここから数ヶ月私を最も苦しませる原因となる痛みの始まりでした。
今回はここまでです!
前回から更新がかなり空いてしまいました。
懲りずにまた読みに来てね…!
【この話の続きです】
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし③
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし④
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑤
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑥
急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑦