急性散在性脳脊髄炎にかかったはなし⑥の続きです。
3度目の転院
転院先のリハビリ病院は一番最初に入院していた病院にいたときから予定していたところで、そこは私の住んでいる京都市内で脳神経系の病気を患った人がこぞって集まります。
なので常にベッドは埋まっていて、転院の手続きを始めてから2〜3週間ほどしないと空きが出ませんでした。
急性散在性脳脊髄炎自体はほぼ完治していたし、痛みもかなり消えそれなりに元気になって気持ちに余裕が出来ていたので転院日までの期間はかなり暇だった覚えがあります。
ボーダー旦那さんや家族が来てくれる休日は院内や側の河原で散歩できるので楽しかったですが、リハビリ以外の時間はとにかく暇でした。
ハンターハンターとアイアムアヒーローを読んでどうぶつの森をする、という毎日でした。(その時間をなにか有効に使おうという気はさらさらない)
転院間近のある日、大学病院の神経内科でお世話になっていた先生がお別れに病室に来てくれました。
実はこの先生、最初に入院していた病院の頃からお世話になっていて、私の容態が急変したときに処置をしてくれた御本人でもあります。(主治医の先生とは別)
もともと前の病院で勤務されていたのですが、私が転院する少し前に大学病院に転勤されました。織田信成さん似の優しい若い先生です。
度々病室に来ては他愛のない話をしてくれていたので、そのときもいつものようにお話していたら、白衣のポケットからおもむろに何かを取り出し、「はいこれ餞別!」といって何かを私に差し出してきました。
差し出されたそれは先生手作りの手のひらサイズのR2-D2でした。
白衣から出てきたことにびっくりしたのと、スター・ウォーズが好きなことを覚えてくれていた嬉しさとで語彙力が死んで気の利いた感想も言えず、ただただハイクオリティなそれに爆笑しました。
大学病院には特に思い入れはありませんでしたが、このノブナリ先生と、もうひとり同じタイミミングで転勤された血漿交換のときお世話になった美女先生とお別れするのは寂しかったです。
6ヶ月のリハビリ合宿スタート
GWも明けた5月12日にやっとハビリ病院へと転院することができました。
京都〜大原三千院〜でお馴染みの大原にその病院はあります。
見渡す限り山、山、山。そしてだだっ広いしそ畑。
さあ心ゆくまでリハビリに勤しんでください!と言わんばかりの電波状況。
いわゆるど田舎です。
リハビリ以外のことは出来ない、そんな環境ともいえるある意味最適な場所。
病院の建物自体は今までのところと同じくらい古く年季のある建物で、リハビリ特化しているというだけあって2階建ての低くて広い建物です。
もっときれいで新しい病院だったらもっとモチベーション上がるのにな〜なんて贅沢も言ってられないので、とりあえずここに居られるマックス6ヶ月は頑張ろうと思いました。
入院して初日は、主治医の先生と担当の理学療法士さん(PT)と作業療法士さん(OT)の顔合わせをしました。体はどういった状態なのか、どんな目標を定めるかなどを確認をしました。
もちろんその当時は今からでもリハビリを一生懸命すればもう一度歩けるはずだとあまり疑いもしなかったので、「少しでも歩けるようになりたい」とはっきりと伝えました。
その言葉を聞いた先生が、うーん、とあまり好ましくない表情をしていたのは気づいていましたが、そこは見てないふりをしました。
でもやっぱり無性に腹が立ったのでその日から先生のことを心の中でジョイマンと呼ぶようになりました。(ジョイマンのナナナナーの高木さんに似てる)
回復期のリハビリ病院のまず最優先課題は、在宅・社会復帰にあります。
何もかも介助なしには生活できない現状から抜け出すことに特化したリハビリを行うのです。
その為私の一番望んでいた、立位・歩行訓練の優先度は生活動作訓練よりも低く、生活動作を難なくこなせるようになるまではなかなか徹底的にはさせてもらえませんでした。
その事にはじめはかなりモヤっとしたのですが、確かに今自分だけで出来ることは本当に限られていたし、やっぱり自分自身が人の手を借りてでしか何一つできない状況がかなり辛かったので、割と早い段階で気持ちは切り替えられました。
リハビリ病院ということもあって、スタッフさんの殆どがPTさんやOTさんで、しかも割と年齢層も若いので、院内は常に活気に溢れています。
私の担当のPTさんは同い年、OTさんは一つ年上で二人共女性ということもあり、直ぐに友達のように仲良しになりました。
けれどリハビリとなると全く甘えさせてくれない鬼でした。そんな人ばかりでした。
こちらの病院は1日1時間前後×3回もリハビリがあるので、必ずしもその2人が私のリハビリを担当するわけではなく、コロコロといろんな人が入れ替わりで入ってくれます。
新卒スタッフはこっちが主導権を握りやすいので唯一サボれるラッキー回でした。(一人だけ全く主導権を渡さないやつはいた)
脳神経系の患者が多いことも合って、患者さんの年齢層がものすごく高く、3ヶ月ほど経ってから同室に同い年の女の子が入ってくるまでは私ほどのの年齢の患者は恐らくいなかったと思います。
まあ見事なほど見渡す限りおじいおばあ率です。
そのお陰か、おじいちゃんおばあちゃんに対する会話術が向上しました。
仲良くなった数人のシニアズの夜の集会に何度か招かれたのはいい思い出です。
今回はここまでです。
それでは〜。